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【2024/1/20「ドキュ・アッタンシアター #京都」イベントレポート】「なにかがおかしい」気配を与える芸術抵抗の力――個人の意識覚醒、群衆との同期、そして社会変化へ  柏木小遥

ーー 2024年に京都芸術センターで開催された「当意即妙―芸術文化の抵抗戦略」展のイベントとして2024年1月20日に開催した「ドキュ・アッタンシアター # 京都」 のイベントレポートを、現在大学院でアンダーグラウンド文化の研究に取り組む柏木小遥さんに執筆していただきました。

 

抵抗の芸術文化への招待


 ロシア・ウクライナ戦争やパレスチナ・ガザ地区へのイスラエルによる軍事侵攻、そしてミャンマー軍の大規模弾圧。見るに耐えない残虐な出来事を認識しても、それらを画面の向こう側の出来事としてしまえば、それなりに平穏に暮らせてしまう。ひとりで生きていくこと、他者を気にせず、依存せずに自立すること。それが一人前になることだと納得させられてしまう社会に、私は大きなやるせなさと違和感を感じていた。自分が抱える悩みや生き苦しさは、本当に個人的なものなのだろうか。世界の諸問題は、私の生活と無関係なのだろうか。簡単に否定できそうな気もするけれど、主観的に考えるとどんどんとドツボにハマってしまう。

 そんななか、私は京都芸術センターでの展覧会「当意即妙―芸術文化の抵抗戦略」のいち企画「ドキュ・アッタンシアター# 京都」の開催情報を聞きつけ、参加した。



 イベントは2部構成で、前半はドキュ・アッタンが紹介する映像作品の上映、後半はミュージシャンとして活躍する傍ら、音楽を用いた抵抗運動の企画を行う篠田ミルをゲストに迎えたトークショーが行われた。その日は冷たい雨の降る夜となったが、用意された席がほとんど埋まる盛況ぶりだった。半ば藁にもすがるような想いではるばる東京からひとりで参加したのもあって、自分がその群衆の一員として会場にいることに、既に大きな意味があったように思う。

 


ドキュメンタリー映像の力:ドキュ・アッタンシアターの魅力


 前半の上映会は、ミャンマー軍による弾圧や拘束の危険を顧みながらも声を上げ続けるエンモーウーダイレクターHピョーダナーカジーの4名のミャンマー人クリエイターが取り上げられ、彼・彼女らを追ったドキュメンタリーに続いて、それぞれそれぞれの作品が上映されるという、ある種特殊なプログラム構成だった。

 



 芸術表現のなかでも映像というフォーマットは、音声や視覚、時間などの多くの制限を持つ特性上、作品ごとに見方が方向づけられ、特定かつ強力な物語性を孕むことが多い。そのため、制作者から鑑賞者へと、一方通行になってしまう側面がある。これは時に、政治プロパガンダに利用されたり、情報戦争の一端を担わされたりすることがある。映像が過剰に語りすぎてしまうという危険性があるのだ。また、ニュース映像のような速報性のあるジャーナリズムは、衝撃的なシーンを取り上げる一方で、とりとめもない日々の会話や生活が、取りこぼされがちである。社会問題の事実や問題性だけが指摘され、象徴的に報道されるという情報発信に対し、やりきれなさも覚えてしまう。そんな両義性を解消するのが、作家の本人たちの作品だけでなく、彼・彼女たちのポートレートであるドキュメンタリー映像を交互に流すという、今回の上映会の試みだ。ひとつの映像作品だけでは捉えきれない、あるいは個別の映像作品で狙われた物語以上のメッセージと問いかけが、浮かび上がってくる。ドキュ・アッタンシアターという「上映会」によって、そこに映るものを超えた身体性が描かれ、私たちの情動を掻き立てた。






プロテストレイヴ:音楽と共振する街のアクション


 後半のトークショーでは、篠田が企画を担ういくつかの抵抗運動のなかでも象徴的なアクションである「プロテストレイヴ」の話題が中心的に取り上げられた。プロテストレイヴは、駅前広場や街頭を舞台に、隣の人の声も聞き取れないほどの爆音でクラブ音楽を放つかたちで行われる抵抗運動だ。また、「レイヴ」とは、クラブカルチャーを野外に持ち出したパーティを指す概念だが、そもそもクラブというものは、社会的に抑圧されたマイノリティがアンダーグラウンドで自己を解放し、音楽、そして身体を通じて同胞と連動する場であった。そんな背景を持つ文化を地上に持ち出し、公共の場で解き放つプロテストレイヴの試みは、ミャンマー軍の抑圧下でも映像制作を続けるミャンマー人クリエイターたちの存在を日本に届けるドキュ・アッタンの活動と相似している。



 現代において音楽経験は、都市を行き交う多くの人々がスマホで配信プラットフォームに接続し、時には周囲への音漏れに気をつけながら、Bluetoothイヤホンから個々に静かに摂取するものになりつつある。プロテストレイヴは、そんな現代の都市空間で半ば強制的に爆音のクラブミュージックを、人々の耳に入れる。そして、人々はリズムに同期して踊りはじめ、その踊りは身体を介して他者に伝染し、さらに人が増えていく。大きくなった集団は路上に膨らみ、滑らかな通行を妨げ、クラブから持ち出したスピーカーから鳴る低音の地響きとともに都市を、文字通り揺らしていく。実際に私もプロテストレイヴには迷い込むかたちで参加した経験があるが、普段何気なく通り過ぎている渋谷の賑やかなハチ公前で、隣の人の声も聞こえないような爆音と踊りまくる群衆に囲まれ、自分も自然とそれに同期して踊りはじめるのがなんとも楽しかった。

 

"STOP GENOCIDE IN GAZA" PROTESTRAVE in 東京新宿駅


 そもそも学校や職場、自宅に続く路上で、爆音に踊り狂う集団と出会うという経験は、かなり非日常的で異質である。私はその群衆に飛び込んで身を任せてみたけれど、音によるサウンドスケープ、踊りによるランドスケープの撹乱は、たまたま居合わせた人にとっては、ギョッとする経験となるだろう。だが、プロテストレイヴの本領はこのギョッとする経験にこそある。なぜこんなところで爆音で爆踊りしてるんだ?おかしいんじゃないか? ―その疑問を与えることが、プロテストレイヴの狙いなのだ。「生活と地続きの公共空間でおかしなことが起こっている」という認識が、個人のコンシャスネス・レイジングとなる。そして覚醒された個人は、音楽、そして踊る身体を介し、広がっていく。



個人の覚醒と社会への結びつき


 デジタル化が進み、情報が細分化されて分散する現代では、なんとなく、スタンドアローンに生きることを強いられているように感じられる。だが、生まれてから大人になるまでの過程で他者を頼らずに生きられる者などいない。言い換えれば、私たちは常に世界とつながっていたはずなのに、いつからか個人であることが過度に讃えられ、社会問題と自分の生活が疎遠になってしまった。

 私の日々の暮らしは果たして本当に平穏なのだろうか。なにかおかしいことが生じていないだろうか。そんな曖昧な不安に悩まされた東京での生活から、私はこのイベントに参加するという行為に及んだが、上映会とトークに参加するという経験自体が、なにかしらの覚醒を遂げたような気がする。ドキュ・アッタン、そしてプロテストレイヴは、平穏な日常に潜むその違和感を引き出し、個人の内面で変革を促す刺激となる。それぞれの覚醒が社会との結びつきを取り戻し、協力することで、変化を牽引する原動力となり得るのかもしれない。




参考文献

近内悠太「世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学」NewsPicksパブリッシング. (2020).

Deleuze, G. “Postscript on the Societies of Control” October. Vol.59. (1992).  pp.3.-7.

Fisher, M. “Capitalist Realism: Is There No Alternative?” Zero Books. (2009).


 

柏木小遥(かしわぎ・こはる)

1998年和歌山県生まれ。英日翻訳家。2021年東京藝術大学音楽学部音楽環境創造科卒業。同学国際芸術創造研究科在籍。社会学、文化人類学専攻。2019年8月より13ヶ月間NY市フォーダム大学ビジュアルアーツ学科に留学、帰国後、学部卒業論文「2020年ニューヨーク市に対峙するHip Hop ―Black Lives Matter運動の隆盛と市⺠の反応―」を執筆する。現在は修士課程でケアの観点からアンダーグラウンド文化研究に取り組む。

 

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